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ラグノオ、調子のよい菓子屋

 暦の上では立秋を過ぎたとはいえ晩夏の暑さは今年も例年通りのようである。しかし、こんな時節に昔の人びとは何をしていたかと考えてみる。夕顔の花の咲く棚下で夕涼み、あるいは小さな音量で小夜曲などを聴いていたのではないか、などと想像してみよう。河のほとりを散歩すれば月見草が咲いている。大正時代なら竹久夢二の「宵待草」の世界である。その甘く愁いを含んだ音律と歌詞は、黄昏時のとろとろした空気に溶けてゆく。

 よけいに暑くなったと感じる人もいるだろうが、それなら「富士には月見草がよく似合う」とうそぶいてみたい。太宰治の有名な文章の一節だが心意気というか志を述べたもので清々しい。たとえて言えば、剣客詩人シラノ・ド・ベルジュラックの台詞のようだ。


 さて前置きが長くなったが、このシラノを主人公した戯曲、エドモン・ロスタン原作の『シラノ・ド・ベルジュラック』は過去に何度か映画化されているのでご存知の方も多いかと思うが、ラグノオという好人物の菓子屋が「狂言回し」として登場する。いやむしろ、シラノにとっては得がたい友人であり、準主役ともいえる存在感のある男なのだ。なにせ、最後の幕切れでシラノはこの菓子屋の腕の中で臨終をむかえるのだから。


 ちなみに、この戯曲は戦前から有名だったせいだろう、手塚治虫の漫画のキャラクターになったり日本風に改名され「白井弁十郎」とされたり、青森は弘前に「ラグノオ」なる菓子店ができたり。


 菓子屋という職業がフランスではいつ頃から始まったのか? この芝居の設定は千六百四十年から五十五年となっているからブルボン王朝の最盛期に至る前夜である。第二幕は菓子職人の次のような台詞に始まる。

 第一の職人 (手際よく盛った菓子を持ってきて)果物入りヌガアで御座い!
 第二の職人 (皿を持って来て)フラン焼きで御座い! 
 第三の職人 (羽根付きの炙肉を持ってきて)孔雀で御座い!
 第四の職人 (菓子盤を持ってきて)ロアンソオルで御座い!
 第五の職人 (鉢ようの器を持ってきて)牛の蒸し焼きで御座い!

 フランス語にはケーキ専門の菓子屋と糖菓類を扱う店をそれぞれ Patisserie、Confiserie と呼ぶが、ラグノオの店は料理屋兼菓子屋だ。

 ところで、シラノ自身は『日月両世界旅行記』ほかの著作が残る実在の人物だが、ラグノオはロスタンの創造であるかどうかも不明である。訳者の辰野隆、鈴木信太郎両氏が「調査する手懸かりがない」と匙を投げている。だが、フランス演劇史において一番の人気者のシラノと共に、この菓子店の名も不滅だ。

それでは最後に、彼の「杏入りタルトレットの製法」という詩をお読みのほど。


 卵三ツ四ツ手にとりて
 泡になるまで掻きまぜて、
 セドラの甘露一滴と
 杏の甘汁そそげかし、

 タルトレットの焼鍋に
 フランの捏粉敷きつめて
 すばやく嵌め込む杏の実、
 落とす卵の泡の水、

 さて、焼鍋を炉にかけて
 こんがり焼くや狐色、
 上々吉の出来具合
 タルトレットの杏入り。

 *引用は白水社版、岩波文庫版から辰野隆、鈴木信太郎訳


フッタ
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